Mar 21, 2011

友人がコールセンターに面接に行った話について

以前友人がコールセンターのアルバイトの面接を受けたが、そのインタビューからの突然の電話の契約を取るという試みがあったそうです。 1時間の間、5件の契約が捕えられれば合格だったそうです。何の知識も経験もない友人だが、熱心に電話をかけてなんとか3件の契約を持っているそうですが、やはり5つの条件に触れないで試験に落ちてしまいました。今思えば、契約を取るのがと落ちるのはあまりにもひどいのコールセンター会社だと思っていました。
電話代行は、企業にかかってきた電話を代わって受けることをいうといいます。では、こういうのはどうでしょうか?歌手グループがあります。その人のライブチケットを、ぜひ持っておきたい、非常に議論がなかなか困難です。それで一緒に電話をかけてもらい、チケットを取るのを助けてくれと言う。これも、電話代行業ですか?
 東日本大震災の影響で今シーズンの活動を休止した男子プロバスケットボール、bj仙台の来季のチーム存続を求める「ブースター有志の会」が21日、bjリーグのプレーオフ、ファイナル4が行われている東京・有明コロシアムを訪れ、河内敏光コミッショナーに2万587人分の署名を提出した。
 会員ら約60人が、試合終了後に河内コミッショナーと面会。会を代表して仙台市の会社員阿部聖子さん(36)と白石市の自営業佐藤直記さん(32)が署名簿を手渡し、署名活動を最初に呼び掛けた阿部さんが「たくさんの方々の思いが詰まっている。ぜひ、存続させてほしい」と訴えた。河内コミッショナーは「皆さんの思いが伝わった。リーグの仲間としてできることを支援したい」と応じた。
 署名は、仙台市のKスタ宮城とユアスタ仙台で計4度行った活動と、全国のブースターから寄せられたもの。当初、約1000人分を目標としていたが、大幅に上回る署名が集まった。佐藤さんは「これだけ集まるとは思わなかった。存続のために、少しでも役立ってほしい」と話した。
 沖縄に期限付き移籍中の志村雄彦ら、仙台と契約していた日本人選手7人もこの日、試合会場に集まり、チームの存続を願う人たちと交流した。

 2007年の第3回仙台国際音楽コンクールバイオリン部門優勝者でルクセンブルクのアリョーナ・バーエワさん(26)が21日、仙台市青葉区一番町のヤマハミュージック東北仙台店でコンサートを行った。「つながれ心 つながれ力 鎮魂、そして希望」と題しバイオリンを独奏し、美しい音色を響かせた。
 イザイの「バイオリンソナタ第5番」など3曲を演奏。買い物客ら約100人が足を止めて、聴き入った。演奏後は拍手が鳴りやまず、サインを求める列ができた。
 アリョーナさんは22日に東京で開くコンサートのため来日。仙台フィルハーモニー管弦楽団が復興コンサートを行っていることを知り、仙台に駆け付けた。
 2008年の岩手・宮城内陸地震の際、CD録音のため仙台市にいて初めて地震を体験したというアリョーナさん。大震災について「津波の映像をテレビで見た時は泣いてしまった。仙台は大好きな街。演奏で元気になってくれたらうれしい」と語った。

 東日本大震災で津波の被害を受けた宮城県南三陸町の志津川高の生徒有志が、モアイ像をキャラクター化して復興のシンボルにする「南三陸モアイで復興計画」に乗りだした。町内で支援活動に取り組む団体の車のフロントガラスにモアイのプレートを張ってもらい、町を元気づける。

 計画の第1弾として生徒たちは21日、行方不明者を捜索している愛知県警などにプレート30枚を贈った。登米市登米総合体育館で贈呈式があり、愛知県警警備課の加藤尚之警視が「町の復興に向け協力したい」と述べた。
 プレートはバス用のA4判、パトカー用のB5判の2種類。警察官に扮(ふん)したモアイを描いた。「復活!南三陸」のメッセージを添えている。
 発案したのは情報ビジネス科の3年生8人。昨年5月に取り組み始めたモアイをキャラクター化する町おこし企画「南三陸モアイ化計画」を発展させた。
 旧志津川町は1991年、チリ地震津波復興30年を記念し、チリ・イースター島のモアイ像の複製を町内の松原公園に設置した。公園のモアイは復興と防災、チリとの友好の象徴として親しまれたが、大震災の津波で頭部が流された。
 活動する阿部裕貴成君(17)は「復興のシンボルのモアイを前面に出し、町に元気を取り戻したい」と語った。

 1945年5月29日に起きた横浜大空襲などを語り継ぐ集いが21日、横浜市中区本郷町の上台集会所で開かれた。東京大空襲の語り部の作家・早乙女勝元さん(79)が「大空襲と憲法と私と」をテーマに講演し、核のない平和社会の実現を訴えた。本牧山手九条の会が毎年開催し、今年で8回目。

 同年3月10日。B29から無数の焼夷(しょうい)弾が投下され、強風にあおられた猛火が東京の下町を襲った。「広大な焼け野原。上野から東京湾が見えたという人もいた」。「警報が鳴るたび、防空壕(ごう)に逃げ込んだ。全部で100回以上の空襲に遭った」と振り返った。

 戦後、平和を実感したことに灯火管制解除と新憲法公布を列挙。「裸電球の明かりで家族の顔がまぶしく見えた。手足が震えるほど感動した」。兄に読んでもらった憲法9条の条文は、約10万人の犠牲者を出したとされる空襲から生き延びたわが身に響いた。

 東日本大震災に伴う原発事故にも言及。「安全神話は崩れた。横須賀などに配備されている原子力空母も同じ」と核のない平和を訴えた。生き証人の高齢化が叫ばれるが、「一なる声は微力かもしれない。でも同意と感動があれば広がっていく。これからも証言を続けていきたい」と話した。

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